お告げ – 07

八方塞がりで、もうあかん!けど、上が開いてまっせ!
人生、山あり、谷あり、壁に耳あり、モハメッド・アリ。
地震や噴火と、たいへんな世の中なのに、さらに個人的にも困難な状況が訪れたりする。
もう、あかん、どうしようもない!なんとかしたいが、自分では解決できそうにもない。
まさに、「八方ふさがり」である。
八方ふさがりとは、落語家の月亭八方(知らない人はすんません)が、道で「待ち伏せ」をしていることではない。陰陽道で言う、「八方の方角(東西南北・北東・北西・南東・南西)」がすべて閉ざされて、どうしようもない状態、つまり、「もうあきまへん」のを言うのだ。
そんなとき、多くの人は何かにすがろうとする。
親や親戚、友人を頼ったり、占い師に相談したり、どこかの新興宗教に駆け込んだりする。
いわゆる、「ドラエもん、なんとかしてよー」と泣く、のび太の心境である。
それでも、どうにもならない。
もとより、多くの困難は、その人の心(現在、または過去からの心の習慣、時には過去生にまでさかのぼる)が呼び寄せたものであるから、
その人以外には、本当には解決できない。
しかし、困っているときには、それが理解できない。今の自分のどこにそんな力があるのか?と疑ってしまう。それは、朝起きた時に自分のメガネを探して、鏡を見て初めて頭の上に発見するマスオさんの姿に似ている。
人は、自分以外の者に頼ろうとした瞬間に、自分の持つ「力」を失ってしまう。
私が、「同情」を避けようと努めるのは、それが時に、相手の持っている「力」や「自分でできる解決のチャンス」を奪ってしまうからである。
だが、そうは言っても、困っている時には、とても自分で解決できるだけの心の余裕がない。
誰か、なんとかしてほしい!つい、叫びたくなる。
じつは、そんなときこそ、あなたはものすごい「恵み」の中にいるのだ。
困っていることが、恵み?じょーだんじゃない!と言いたくなるだろう。
しかし、事実である。
始めは、「自分が苦しい」ために、周囲が見えない。まるで、世界中で自分だけが不幸のように思えたりする。
けれども、だんだんと自分だけが特別に苦しいのではなかったことに気づいていく。
それは、病気になって入院したときに、他にも同じ病気で苦しむ人がいたことを知るのと同じである。
そのとき、人は、「自分」を外から見ることができる。
人間は、困難に出遭って初めて多くの事を知る。
人の痛みや、悲しみ、地上の多くの不幸の原因に気づいたりもする。そして、自分を中心に考えていた「世界」が、とても小さく、「宇宙」からいかに離れていたかに気づかされる。そうして、人は、自分を縛っていた幾つもの「偏見」を自己の中から一つ一つ取り外していくのだ。
そのチャンスが訪れることを「恵み」と言うのだ。
乗り越えて、次の段階へと「進化」していく「生」という名の長い旅――。
けれども、人間は一人ではない。
いつでも、「お助け」の手は差し伸べられている。
八方ふさがりな状態の時、人は思わず天を仰ぐ。すると、そこには青空がある。
その昔、植木等が、「♪金のない奴は、おれんとこへ来い。おれもないけど心配するな、見ろよ、青い空、白い雲……♪」と歌って私たちを勇気づけてくれたことは、まだ記憶に新しい(そうか?)。
普段、人はなかなか空を見ない。見ていたら、車にひかれたり、足を踏み外して危ないからだ。まして、大阪人は、めったに空を見ない。お金が落ちていないかと地面を見ているからだ。
「井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の高きを知る」と言う。
私たちが、本当に行き詰まったとき天を仰ぐのは、そこに解決の道があることを無意識にも知っているからだ。
「無力感」に打ちのめされるとき、人は「自我」ではなく、「素の自分」で天を求める。すると、天との通路が少しずつ開いていく。共鳴し、呼び合う音叉のように。しかし、天との通路は、自分がぎりぎりまで「努力」をしたかどうかに比例して開かれる。
それも誠実(誠とは、「言霊が成る」ことだ)に、愛を込めて。
「天は、自ら助く者を助く」のである。
もし、あなたが、今、自分の力ではどうしようもない困難に出逢っていたら、今、「次の扉」の手前にいるのだということを知ってほしい。
天を仰いで、智恵を願おう。きっと、解決の糸口が現れる。
それは、知人や友人を通して、援助の形で。あるいは、時の変化が起きて。ある夜、天啓のように。
大切なのは、その解決が、今の自分の望む「答え」でなかったとしても、それまでに誠を尽くし、愛を行なってきたのなら、必ず「良い結果」につながっていくと信じることだ。
そんなことが信じられるのか?
信じられる!あなたが心から天を信頼したら!である。
そのことを、私は八方ふさがりだった晩に、八宝菜を食べながら直感したのだから、間違いはない!