お告げ – 06

「でんがな」 と 「まんがな」

「いやあ、そうでんがな」
 「そらもう、やりまんがな」
今日も活気に満ちた大阪・北浜の証券街では、こんな言葉が交わされている。
日本人ならだれでも知っている「街角の挨拶」である。
もともと、「もうかりまっか?」の問いかけに対し、「いやあ、ぼちぼちですわ」と受け答えするのは、大阪弁活用法第20条に明記されている
事実であるが、一般には、「朝の挨拶」として庶民に親しまれてきた。
その昔、江戸時代に流行った「あきんどは、半値半値で蔵が建ち」という川柳に端を発している。「いやあ、半値です。元値でおます」と、いかにも安売りで利益が少ないかのように言いながら、せっせと蔵を建てられるほどに儲けている大阪商人のたくましい姿が朝の挨拶一つにも伺えるのである。
 
しかし、一種の洗脳兵器であるテレビジョンの流行によって、正しい大阪弁は急速に消えつつある。大阪弁を愛してやまない私には、寂しい限りである。
では、「でんがな」と「まんがな」は、どう使い分けられているのか――? 
それを知る一族はもう数少ない。
京都では、「そうでんなあ」と表現した。
「がな」が「なあ」と変化している。「が」と「あ」の違いである。なぜか?
それは、大阪人特有のカルマとも言うべき「が=我」のせいである。つい、「わしが!」というリキみが入る。だから、「わしが言うのや!」と、断定的なもの言いになる。そこへいくと、京都人は断定を避けてはぐらかす。国際会議でロシアのチェレネンコフが指摘したように、「なあなあ主義」の、決して腹の内は見せない公家的会話術のたまものであろう。ご馳走する気は毛頭ないのに、「まあ、ぶぶ漬けでもどうどす」と誘う挨拶にも表れている。
一般に、「でんがな」は、自分の行為に対する「断定」または、「覚悟」を表す時に用いられる。
で、「まんがな」は、さらに「強い決意」を加味した言葉として使用される事が多い。「行きまんがな」と大阪人が言うときには、「雨が降ろうと槍がふろうと……」という固い決意をにおわせる。
このように使い分けられたのは、「商売の分かれ目」は「強気」であるかどうかにかかっているという、厳しい世界があったからである。
 
さて、今日、日本人は自分に自信を失ったのか、それとも、責任回避のお役所的体質が蔓延したのか、自分に「責任」を持つ人が少なくなった。何かトラブルがあると、人のせいにしたり、責任を回避しようとする。
だわかりやすく言えば、「あなたの現実は、あなたの心が創ってきた」のだ。
もし、あなたが今、自分に不都合な状況の中にいて、苦しんでいるのなら、それは、あなたの「心の習慣」がどういう環境を創りやすいかを教えてくれているのだ、と捉えてほしい。そして、ずっとそこで苦しみ続ける必要はもうないのだということに気づこう。
なぜなら、「苦しんでいる」状況は、それを冷静に自覚するに従って、そこから脱出を図ろうという「意志」を動かすからだ。それは、運命の「自然治癒力」とでも言うべきものである。
けれども、自分の状況を受け入れず、誰かが助けてくれないかとか、誰か他人のせいにしていたら、その「意志」は働きようがない。
あなたの人生は、あなただけにしか「助けられない」ものだ。いや、あなたになら、「助けられる」。
もし必要なら、誠実に努力するあなたに、「ご縁」という形で、見えない援助も差し伸べられるだろう。

そのためにも、今日からは、「でんがな」と「まんがな」で、自分の心の態度と言動に責任を持つようにしたいでんがな!