お告げ – 00

楽観主義研究家、悲観主義研究家 baramonX
狙われた街
アパートに潜入したダンは、うす暗い廊下をいちばん奥の部屋の前まで捜索する。するといきなり扉が開いて部屋に連れ込まれ、眼前にはメトロン星人が待っていた。そして…、あまりにも有名な、「ちゃぶ台を挟んで対峙する、ダンとメトロン星人」の画面。 「ようこそ、ウルトラセブン!
…我々は、君の来るのを待っていたのだ…」(メトロン星人) 「なに!」(ダン) 「歓迎するぞ、アンヌ隊員も呼んだらどうだい」(メトロン星人)
ちゃぶ台の前に、あぐらをかいて座るメトロン星人。つられたダンも思わず座ってしまう。「君たちの計画は全て暴露された。おとなしく降伏しろ」(ダン) 「ハッハ…、我々の実験は十分成功したのさ」(メトロン星人) 「実験…?」(ダン) 「そうだっ!赤い結晶体が人類の頭脳を狂わせるのに、十分効力があることが分かったんだ。教えてやろう、我々は人類が互いにルールを守り、信頼しあって生きていることに目をつけたのだ。
地球を壊滅させるのに暴力をふるう必要はない。人間同士の信頼感をなくせばよい。人間たちは互いに敵視し傷つけあい、やがて自滅していく。どうだ、いい考えだろう」(メトロン星人) 「そうはさせん、地球にはウルトラ警備隊がいるんだ」(ダン) 「ウルトラ警備隊?恐いのは、ウルトラセブン、君だけだ!だから君には宇宙へ帰ってもらう、邪魔だからな…」(メトロン星人)
「どうして、そんな事をするんだ?」
諸星ダンが詰め寄った。
「信頼しあっている地球人同士をケンカさせて、地球を滅ぼしてやりたかったんだ」
メトロン星人は、
「メトロン星人の地球侵略計画はこうして終わったのです。人間同士の信頼感を利用するとは恐るべき宇宙人です。でもご安心下さい、このお話は遠い遠い未来の物語なのです…。え、何故ですって?…我々人類は今、宇宙人に狙われるほど、お互いを信頼してはいませんから…」(浦野光)、『狙われない街』ではとうとう人間は侵略者にも“侵略する価値の無い存在”として見放されてしまう事になってしまいます。
カイト>あの人の言う通りだ。やつはこの星に見切りをつけたんだ。ミズキ>でも・・・。
「俺はね、40年間潜伏して見守ってきたが、もう攻撃しなくても人類は俺たちの手に落ちると確信をしたんだね・・・だから、もう・・帰る!」 「なにぃ!?」 「人類は便利なツールを手に入れ、どんどん退化し始めたからさぁ・・・街中サルだらけ。放っておいても滅びるよ。新しい道具で人間の脳は萎縮し始めている。もう戦う必要はない。その退化の速度をちょっと速めようと力を貸しただけだよ。」 「貴様ーーー!」 「ねーお前さんも宇宙人の仲間じゃないの。低脳化して、環境を破壊して、礼儀も知らない人類を物好きに守る必要もなかろう?」 「つべこべ言うな」とダッシュライザーを構える。
コップがある。そこに水が半分だけ入っている。
そんな時、あなたはどちらを思う方だろうか?
「ああ、まだ、水が半分も残っている」
「どうしよう、水がもう半分しかない!」
現象だけを見れば、コップの水はどちらも半分である。けれど、その捉え方一つで、その後の道は、大きく変わっていくように思う。
「まだ半分も」と言う人は、最後の一滴まで楽しめるに違いない。
けれど、「半分しかない」と言う人は、無くなっていくに連れて、惜しむ気持ちが増え続けるだろう。
どちらの人が、「正しい」という次元の話ではない。どちらがポジティブでしょうかと、おバカな質問をするつもりもない。
それは、鉄腕アトムと鉄人28号のどちらが、年を取っているかと聞くに等しい。
ただ、人生は、時に、楽観的に、時に悲観的に、自分を客観視しながら「どう、楽しく生きられる」かだと思う。
よく、起業家を目指す人などに、「最悪の事を考えて、それから行動しろ」という人がいる。
確かに、「取らぬ狸の皮算用」という言葉があるように、ビジネスで「甘い計算」をして失敗した人たちは多くいる。
ならば、その人は、「悲観主義者」かと言うと、そう単純には割り切れない。なぜなら、悲観主義者なら、起業など目指さないからだ。
「どうせ、何をやってもうまくいかない」と思っていたら、怖くて起業など出来ない。
その人たちは、「悲観的予測」をして、常に対策を怠らない、楽観主義者なのだ。
人生が何もかも思い通りに行くなら、誰も苦労などしない。
けれど、人生は予測不可能である。だから、不慮の出来事に対して、予防措置や対策を考えながら、「夢」を見るのだ。
と、すれば、その人は、基本的には「楽観主義者」なのだ。
悲観主義者の証明は、「夢」を見ないことだ。
なぜなら、「夢」こそは、人生を前に進めていく、「生きよう」と後ろから支えてくれる、活力源だからだ。
もし、あなたに何の「夢」もなければ、「悲観主義的」な境地にいると思っていい。
ただし、「夢」があっても、あきらめていては、やはり、それは、「悲観主義的」状況なのだ。
だが、「夢が無くても生きている」という次元で見た場合、そこには、「生きなければならない」的な強さがある。
それは、人生では悲観的でも、生きる強さに関しては、楽観的なのだ。
「禍福はあざなえる縄のごとし」というように、不幸な出来事の中に「真理」や「学び」が隠されていたり、幸福にひたっている中に、「無関心」や「自己中心」が隠れていたりする。
僕は、結局は、同じ所に辿り着くのではないか、と思っている。
最後に幸福屋から一言。
今年もいろいろありすぎました。別れも出逢いもありましたわいな。それでも、なんとか生きています。来年もよろしゅうお願いします。
さあて、今夜は格闘技見てから、3000年に一度のお雑煮でも作ろうかなっと。