お告げ – 77

目には見えないけれど、「掴んでるもの」、それが、執着……かな
……えー、まいどバカバカしいお話を一つ……。
そんな口調で始まる上方古典落語に、『しまつの極意』というもんがおます。
どうやったら、お金を貯められのか、その極意を習いに来たキーコ(江戸落語では与太郎、今で言う、ラクして儲けられたらと願うプータローか?)に、ケチで有名な金持ちの御隠居がコツを教えてやる話なんですが、キーコを高い木に登らせて、枝にぶら下がらせ、片手を放しなはれと言うんですな。
「えええっー!」と驚くキーコ。
で、残った手の小指、薬指、中指と順番に放させていくんですな。すると、キーコは枝から落ちそうになるから、怖くて「もう、よう放さん」と泣きわめくと、ご隠居がすかさず、「親指と人差し指で出来る形、それが銭や。それだけは最後まで放したらあかん!」と教え諭す、……まことに人類が進化せーへんかった理由がよーくわかるお話ですなあ。
人間、自分で気づいているよりも、「執着」を掴んでる、あるいは、捕まったりしているもんですわ。
たとえば、誰かを好きになりますなあ。そんで、その相手が自分以外の異性に目が行ったりすると、苦しんだり、泣いたり、怒ったり、「しばいたろかー」と恨んだり、その相手の異性に嫉妬したり、そらもうたいへんなもんですわ。
ヒットする恋の歌は、そんな重ーイ感情さえも、「恋でんがな」、「愛かしらん」って、美しい勘違いしてますけれど、そんなもんは「執着」以外の何ものでもないわ、アーハッハハ。
「好きやねん」という感情が、「捨てんといてね」という恐れの感情に変わるのも執着ならば、「許せない」、「憎い……」と、怒りの感情となるのも「執着」でっせ。また、記憶も執着でんな。いつまでも苦しむ時は、どこかで、本人が自覚していない処で“掴んでる”んとちゃいますやろか? 思い出したり、心が揺れる間は、執着も消えていないのだと思うとよろしいかもしれまへんなあ。
で、執着に疲れた時、自分でも「そんなんいやや! うち、もっとエー女になんねん」と、人は旅立ち、振り返らずに故郷(自分の原点)を後にし、義経は、中国に渡ってジンギスカンになるのでありンす。
けどなあ、ほんまに大変なのは、自分の考え方、ものの見方、捉え方、価値観を「掴んでいる」時でっせ。
なぜなら、「自分で考えた」、「自分で感じて、判断した」と、思っていても、それ自体が過去に捕らわれた「自我」から生まれたもんやとしたら、ほんとには前に進んでへん。
本当に「執着」から自由になって、自分を成長させるコツ、教えましょか?
それはな、「孤独」の中に、自ら入っていくことなんよ。
自分が何に捕らわれてるか? 何に苦しめられてるのか? 恐れてることは? なんやろか?と。
怖がらんと自分を見つめて、その自分を認めて、自分を許していくことなんとちゃいまっしゃろか。
あっ、孤独って、物理的に「独り」になることとは違いまっせ、植木屋はん。「自立」と置き換えたらよろしい。
……そのとき、「執着」さえも、次の段階に移るための「きっかけ」やったんや、と気づけるのかも。
最後に、幸福屋から一言。
永谷園の「焼きラーメン」は、焼きそばも食いたい、さりとて、ラーメンも捨てがたい、という深夜の食い意地の「執着」から生まれもんやという。人間の弱点を見事に昇華した商品やと、ワシは思う。どうでっしゃろ。
2007/6/6