お告げ – 97

「祈りが足りない」とは、「感謝」が足りないこと
♪手品するアル、皆来るよろしー、うまくいったら、飴買っておくれー♪
(パチパチパチ……)拍手の音。
「あー足りない、足りないなー、ワタシせっかく珍しい手妻やったのに、みんなのお礼、少ないよ! ほんと、デブのホビットさん、礼儀知ってるよー、こそこそとねー」
人は、自分が人にしてあげたことを結構覚えている。でも、人にしてもらったことは、すぐに忘れてしまったりする。その逆だといいんだけど。
「あー、ほんと、デブのホビットさん、あー、これは、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』編を見ていないとわからないギャグだったよ。メンゴメンゴ」
ところでだよ、諸君! ワシ、前から言ってるよね。「自分も含めて、とても祈りが足りないのよー」って。
「祈り」って言うと、たいていの人は、「あー、神さまに対しての祈りが足らへんのやろなー。もっと、神社やお寺に行って、宝クジ当てとくれやす! って、お願いせんとあかんやろか?」と考えてしまうにちがいない。あるいは、「きっと宇宙との交信が足りないんだな」と深読みするかもしれない。
けれども、「祈りが足りない」とは、本当は、「感謝」が足りていない、ということなんだよ。
「あっ、そ」って頷いた君、ほんとーにわかってんのかいな?
誰でも言いますがな。
「感謝せんとあきまへんで!」って。
けど、それは、誰か、いわゆる自分の外側に対しての「感謝」と違う?
もちろん、それは、ちゃんとせんとあかん。でないと、「ほんと、デブのホビットさん……」(あっ、しつこいか。繰り返しのギャグなんだけど……)となってしまうから。
ワシの言う「感謝」とは、人が恐れを克服し、自分の「内側」に勇気を持って向かい合うときに、初めて感じる「感覚」なんだと思うよ。
そうね、言葉でうまく伝わるかしら。
「自分という“存在”をすべて受け入れてくれている、何者か」に対する感謝と言い換えれば、わかりやすいだろうか?
どんな人も自分の中に「弱い自分」を見るよね。でも、それも含めて、今の自分自身なんだ。
それを嫌っても、誤魔化しても仕方がない。だって、そんな自分をさえ、黙って受け止めてくれて、「愛してくれる」存在がある。
それも、自分の「外」にではなく、自分の内側に、「ある」。
創造主、至高の存在、神さま、宇宙の意志、仏さん、ビリケンはん……、それをどう呼ぼうとかまわない。
ただ、感謝が足りないと、自分自身の存在が、「もったいない」よ。
宇宙の一つの奇跡として、「生かされている自分」を知るのと知らないのとでは、日々の生き方が違ってくる、ように思うけど。
「では、ワタシにも役目があるのですね!」って、知らんわい、そんなん。
けど、「生きている」それだけで、十分やんか。
自分の存在に「理由づけ」や「条件」、「こうなったら、自分にも価値がある……」、そういう感覚が、「驕り」なんだと言ったら、わかってくれるやろか……。
「感謝」とは、恐れないこと、だったりするけど、「畏怖」しないこととは違うよ。
前に言ったっけ。「慈悲とは、未だ本当のことを知らされていない者の哀しみを知ること」って。
……ならば、自分も「慈悲を受けている」一人であると知ることが、「畏怖」かな。
まあ、じっくり考えとくなはれ。
最後に幸福屋から一言。
『ロード・オブ……』や『ハリー・ポッ……』などの、ほとんどホラー映画みたいなものを、いつからファンタジーと呼ぶようになったんだろう? 人がたくさん死んだり、生首が飛んだりするような映画をファンタジーと呼ぶのは、きっと、人間の感性が麻痺してきた証拠だと思うよ。昔見た、『ネバーエンディングストーリー』はまだ、安心して見られたような気がするけど。
それもこれも、宇宙やすべての「存在」に対しての「祈り=感謝」が足らんのやろなー。ブツブツ、ほんと、デブのホビットさん、ブツブツ……。
2008年 2月23日 今日、春一番が吹いたそうです!まだ寒いけど……。