お告げ – 131

アバターも笑窪(エクボ)

映画『アバター』を観たかい? 
本格的な3D映画として、ちょっと話題になったから、観た人もいるかもしれない。
『焚いた肉』というスキヤキ映画を撮った……いや、『タイタニック』のジェームズ・キャメロン監督が12年も構想したという映画だとか。

前半は、惑星パンドーラという何か不思議な、そう、遠い過去の記憶が甦ってくるような美しい原始の森が圧倒的な映像でスクリーンに映し出される。
「あっ、私、……昔こんな光景の中に居たような気がする……」
「空中に浮いた岩、……ハテ、どこかで視たような……」
「この森の湿気を嗅いだ……そして、この水の中を泳いだ記憶がある……」
などと、人々の妄想か、原風景を刺激してくれることこの上ない。
と、ここまでは楽しい!

しかあし、後半はいただけない。
西部劇の騎兵隊とインディアン(ネイティブ・アメリカン)の歴史の繰り返しだから。
「インディアン、ウソつかない。白人、おまえ悪い奴」
そのセリフがそのままぴったりと当てはまる。

相も変わらず、暴力と傲慢による侵略劇。
『ダンス、ウイズ、ウルブス』を思い出しちゃった。
それでも、この映画は、歴史の繰り返しの悲劇と戦争の愚かさを前面に押し出している。

その為か、なんでも、本国アメリカでは、『アバター』は、“反戦、反軍”映画だとして保守派から「けしからん!」と非難を受けているらしい。
さらに、「自然の中に神が宿る」という、いかにもネイテイブらしい思想に対して「一神教」を主張するキリスト教会からも反発があるとか。
なんだかなー(阿藤 海調で)

この映画を観ると、22世紀になっても、遠い宇宙に乗り出せるようになっても、人類はなーんにも変わっちゃいない! という事が、“ありおりはべり、いまそかり”と迫ってくる。

映画中、ネイティブ(先住民のナヴィ族)に感情移入させる手法に、私たちはその勝利を共に喜んだりしてしまう。
けれど、ネイティブもやっている事は地球人と変わらない。
殺戮(さつりく)に対する殺戮……。

この映画を「霊学」的に分析すると、とても注意深く視るべき点が見えてくる。

それは、ナヴィと地球人の遺伝子から造り出した「アバター(人工生命体)」の中に意識をダウンロードさせた地球人の海兵隊員が、ナヴィ側に立って、地球人に対する抵抗運動を組織していく部分に現れている。

彼はナヴィたちの前でこう言う。
「この星を自分たちの手で護ろう。この星は、われわれのものだ!」
うちのめされ、追われ、しかし、新たな希望に歓声を上げる先住民たち。

だが……、彼らはそれまで、惑星パンドーラを自分たちの星、所有物とは意識しなかったはず。
それは、「所有欲」という西洋人や現代人の価値観。
惑星パンドーラのナヴィ達は、自分たちはどこまでも森の一部であり、大地や星と共に在ったのに……。
それが、自分たちとそっくりな姿の、しかし、中身は異質の地球人の意識に触れて変わっていく。

映画の中で、パンドーラの稀少鉱物を狙う企業側の白人が言う。

「あいつらは、木の上に住む不潔な野蛮人どもだ!」と。
それは白人の視点。かつてのマヤやアボリジニなどの先住民たちに白人が言ってきた言葉と同じ。

……自分たちの価値観を押しつける。その同じ事を、今度はより巧妙に彼らの内側に入り込んで行う。
問題は、それが「悪気」や「悪意」がないことだ。むしろ、正義であり、善であると信じ込んでいることだ。
 

内側からの「自我」の攻撃……。
霊学的には、進化に見えて、かえって自我の罠にはまり、退化していく。
……僕には、反米や反軍よりも、もっと深刻な人間の本質を垣間見せた映画のように映る。


2010年2月1日(月)
1月にハイチで大地震が起きて、多くの犠牲者が出て、暴動が起き、略奪も後を断たないという。
挙げ句に、救助活動は打ちきりになった。理由は治安維持と都市機能回復の為とか。
ここからは、天災ではなく、人災だと思う。

さて、2月2日……。
そして、節分を迎える。
皆さん、恵方巻きは、予約しましたか。