今週のお言葉 – 16

私たちは、何を“大切”にしてきたのか
墓場に裸で暮らしている男がいた。
服も着ず、裸で、夜も昼も叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。
イエスが名前を尋ねられた。
男の中に入っていた“悪霊”が答える。
「我が名はレギオン……私たちはとても数が多いのです……」
イエスは、男から追い出した悪霊を豚の群の中に乗り移らせた。すると、豚たちは崖を駆け下り、湖に落ちて溺れ死んだ。
村人たちは何事が起こったのかと見に来た。
そこには、悪霊に取り憑かれていたはずの男が、着物を着て、正気に返って座っていた。
以前、中国のある村で、ブタが一斉に川に走り出し、次々と水の中に飛び込んで溺死したという小さな記事が新聞に載った。
聖書の場面を思い出した。表面上だけを捉えれば、「謎の集団自殺」の珍しい現象と見る人が多いだろうが、もっと深い意味があったように思う……。
イエスが悪霊に取り憑かれた男を救ったとき、村人たちは“可哀想な一人の男”が救われたことよりも大切な村の財産であるブタを失ったことを問題にし、イエスを村から追い出した。
精神も身体もボロボロになっていた男は、社会的な視点で見ればあきらかに「弱者」である。
誰もが手を差し伸べなければならない相手にちがいない。
けれども、時に、「大衆」という名の人々は、「弱者」を助けるどころか、無視してさらに悲惨な状況に追いやろうとする。
イエスが助けた男は、個人ではなく、本当は人々の中にある「良心」だったのではないか?
悪霊に取り憑かれていたのは、じつは村人たちの方かもしれない。……「無関心」という名の悪霊に。
イエスによって解放された男は歓喜し、村人たちに自分に起きた奇跡を伝えて回った。
村人たちは驚いたが、誰も、自分たちが“救われる”チャンスをもらったことに気づけなかった。
イエス様は、どれほど悲しまれたことだろう。
人間は、権力と金が結びついた時や自分の利益を守りたいと思ったとき、「良心」を忘れる。
シャボン玉石鹸が新聞に全面広告を出して、合成洗剤の危険性を訴えたとき、新聞の広告担当者の首を飛ばしたのは、合成洗剤のメーカーだった。彼らはアトピーなどで苦しむ人たちよりも自分たちの会社の利益を優先したのだ。
薬害エイズが問題になったとき、一部の危険性を知っていた人たちは沈黙していた。
けれど、彼らも特別な悪人などでは決してない。普通のどこにでもいる人たち……。
その普通の「善良」な人たちの中に、「善良ではない」ものを見たとき、人はどれほど傷つくのか……。
最初から、悪く見える方がましかもしれない……。
哀しいとことに、人は、自分や自分の身内に不幸が起こらない限り、他人の「痛み」に気づけなかったりする。
テレビではホームレスの増加が取り上げられる。
なのに、社会現象としてしか映さない。
住む家を失い、橋の下やビルの片隅にうずくまっている人が、もしも、自分の家族だったら……。
「たいへんですね」と淡々と語るキャスターの身内には、きっとそんな人がいないのだろう。
私たちの社会は、いったい何を大切にしてきたのだろう?
一人の人間が健全で「幸せ」に暮らせることを優先してこなかったのだろうか。
「卑怯な弱い心」は、自分の中に潜んでいる。
保身や自分さえ良ければ、という悪霊のささやきに耳を貸してしまう時、困っている人を見て見ぬ振りをした時、
自分もイエスを追い出した村人の一人になっている。
この世界が、本当に良くなるには、自分が「卑怯」なことをしていないか、知らぬ間に「弱者」を虐げていないかと、いつも自問自答しなければならない。
自分がイエス様を追い出した一人にならないように……。