今週のお言葉 – 20

主なる御神、このたびの転業が御心に叶うのでしたら、どうぞすべてのことを備えてください。
しかし、御心に添わないのでしたら、次に進むべき道を教えてください。
どうか商売をすることによって、私たち親子兄弟が心を濁すことのないように導いてください。
神の栄光を現すために、わたしたちをどうかお使いください
『愛の鬼才-西村久蔵の歩んだ道-』 三浦綾子 著 新潮社
最近読んだ本の中で、とても感動したものがある。
三浦綾子さんがお書きになった、西村久蔵さんの“記録”である。クリスチャンなら知っている方も多いと思うが、残念ながらぼくは西村久蔵さんを存知上げなかった。
西村久蔵さんを、「何々を為した人」と説明するのは難しい。高校の先生で、禁酒運動の提唱者で、札幌のニシムラ洋菓子店の創設者で、北海道のキリスト村の開拓者で……。
だが、何を為したというより、生きる姿勢そのものが尊く、美しく、謙虚そのものなのだ。
西村久蔵さんは驚くほど多くの人の心と魂の中に生き、彼らの人生を大きく変えた。
キリストの説いた「愛」を自らの行動で、生き切った人。西村さんに出会ったすべての人は、誰もが自分だけが特別に愛されていると感じたという。「自分さえよければ……」という人の多い世の中で、誰が、これほど他人を愛することができるだろう。一度か二度しか逢ったことのない人にさえ、肉親のように親身に接した。自分に厳しく、他人にやさしい。それも限りなくやさしかった。
だからこそ、いまだに多くの人が、西村久蔵さんを敬愛し続けているのだろう。
作家、三浦綾子さんをして、その生涯をどうしても書かずにはいられなかった人。三浦さんも貧しい結核患者の時代に、西村さんに出会った一人だという。それも、わざわざ西村さんの方から、訪ねて来たのだという。三浦さんがまだ作家としてデビューなどしていない、結核で苦しむ貧しい一人の療養者だった時にである。
親戚さえも敬遠した結核患者。初対面の西村さんはこう言ったという。
「あなたは札幌に、甘えることのできる親戚や友人がありますか」
三浦さんが「ない」と答えると、
「では、今日から私を親戚だと思って、何でもわがままを言ってください」
西村さんのこの言葉が、当時、頑なになっていた三浦さんの心を溶かしたのだという。
ぼくは本を読みながら、何度、文字がにじんで読めなくなったことだろう。電車の中で読むには、本当に適さない本である。人から、なんで泣いているのだろうと不審がられるから。
そんな西村久蔵さんが、洋菓子店を始めるときに、資金繰りで苦労して、お母さんのカクさんと交わした会話がとても印象深い。
資金繰りがうまくいかないのは、神さまが「良し」と見給わないからではないかと言う久蔵さんに、母親のカクは、こう答えている。
「よしと見給うか、見給わないか、そんなことがどうして久蔵にわかるのです。わたしたちだって、大きな相談を持ちかけられれば、ちょっと考えさせてくださいと言って、すぐには返事はしませんよ……(中略)このような八方ふさがりのような時こそ、久蔵、わたしたちにはすることがあるのではありませんか」
母、カクの言葉に久蔵さんは、がく然とし、
「わかりました。お母さん。祈る時間を神さまは与えてくださっているのですね」
と、答えるのである。
そして、この「祈り」である。
これこそが本当の「祈り」だとぼくは思う。
私たちは、時に、「祈り」ではなく、「願い」を神さまに打ち明けてはいないか?
その結果がどうであっても、それを「神意」と受け止めるよりも、なんとか、自分の望む結果になるように、頼んではいないか?
それは、真の「祈り」ではないのだ。
ここに優れた、真の「祈り」の見本がある。
ぼくは、この西村久蔵さんの「祈り」に学びたい。
西村久蔵さんの『愛の鬼才』の一読をお勧めしたい。