今週のお言葉 – 61

愛とは、自分を正しいとしないことである
ゼーレン・キルケゴール
良かれと思ってした事が、誤解を生んでしまうことがある。
相手のためを思って出た言葉や行動が、「押しつけ」と受け取られることもある。
同じ言葉や想いが、時と場合で、嬉しかったり、迷惑だったりもする。
人も世の中も、いつも流動的だ。
「沈黙は、金なり」という言葉の重みを想う。
自分だって、人から親切にされたときに、ありがた迷惑だったこともあるはずだ。
きっと一番良いのは、必要とされるときに、必要な分だけ、「できる」ことだろう、と思う。
でも、それって難しい。
相手は自分じゃないし、自分もその人じゃない。
あまりに気を使うと、今度は、その気を使われるのが負担と思われたりする。
で、結局、何もしなくなっていく。
そんな経験はないだろうか?
「自分が正しい」と言い切れたり、思い込める人は、うらやましい。
きっと、その人は、自分ではそんなつもりは毛頭ないのだろうけど。
よく、「自分がしてほしいことを相手にもしてあげる」とか、「自分がされてイヤな事は、人にもしない方がいい」と云う。
後者は、必要だけど、前者は必要じゃない、ように思う。
相手は、どこまでいっても自分じゃないから……。
本当に「愛」を知っている人は、相手が喜ぶとか、喜ばないとか、そんな次元で動かないように思う。
時には、放っておき、時には、相手がイヤだと思っても、「おせっかい」が焼けるのだと思う。
マザーテレサなんか、そんな感じがする。
それは、「祈る」ことの形に現れたものだから。
自分のことを勘定に入れないで、動けたとき、そこに愛が発動する。
きっと、それ以外は、余計なことなのだ。
自分にとっても、相手にとっても。
※でも、人間は感情の生き物。好きな人からもらった花は、嬉しいけど、なんとも思っていない人からもらったら、ありがた迷惑だったりする。
ああ、それが、人類を不幸にしてきたのだな……。