今週のお言葉 – 63

ずっと夢を見て、今も見てる~

「私は、現実と折り合いがつかないのです」
ときおり、そんな言葉を耳にする。
「自分が嫌いで、世の中も嫌いで、どうやって、この世界で生きていったら良いのか、答えがありますか?」
そんな問いもある。

「何を甘ったれた事を言ってるんじゃい。世の中は厳しいもんぞ」
昭和一桁のオヤジなら、そう一括にふすかも知れない、悩み……。

けれど、僕自身が、現実社会とどう折り合いをつけて生きていけば良いのか、ずっと迷ってきたからわかる。
この世界は、とても生きにくいのだと。
昔、一人の友人は、ドラッグに走り、酒に溺れた。いつ逢っても、酒臭い息しかしなかった。
彼は、あまりに「世の中が見えてしまう」ために、自分の感性をマヒさせるしかなかった。
そして、お酒で身体をぼろぼろにして亡くなった。

僕も、いろんなものが「見える」。
はっきりいって、見えなくて良いものまで(幽霊なんかじゃないよ)。 
僕も感性がマヒするくらい飲めれば良いけれど、少し飲むとすぐに眠ってしまう。
で、明くる日は、元気になって起きる。

僕の年齢になると、たいていは家族を持ち、家を持ち、社会的な責任があり、老後に対する多少の計画性も持っている。
友人が家を建てた。事務所を持った。部長になった。孫ができた。そんな話を聞くと、自分とのあまりに遠いギャップにただただ呆然としてしまう。
みんな、本当に大したものだと心から感心するのだ。
自分には、「根っこ」がない、そんな感覚がここ何十年も付きまとっているから。

それで、いつの頃からか、自分はずっと夢を見て生きているのだと思っている。
夢見て生きている、と言うと、聞こえは良いけれど、本当は、ずっと途方に暮れているのかもしれない。

ただ一つ救いなのは、現実の社会は、じつは人が思っているほど「堅い」ものではないことだ。
エネルギーという視点で、社会も人も見ていくと、「なるようになるものは、なるようになる」、「なるようにならないものは、どうしたってなるようにはならない」と、「ある御縁」が動いているのが見えてくる。

で、結局、人は人。自分は、自分にしかなれないから、今、もし迷っているのなら、「迷うべくして迷っている」のだと思う。
人の答えは、ヒントにはなっても、自分の答えにはならない。
自分の「答え」は、自分にしか当てはまらない。
だけど、親鸞上人の「死ぬときは、死ぬるがよろしかろう」と言うように、迷い苦しむときは、「迷うがよろしかろう」とも思う。

なぜなら、人は、「生かされているかぎり、生きていける」のだと。
貯金が無くても、生活手段が無くても、誰も頼る人が居なくても、身体が病気でも、「寿命」がある限り、生きていける。
逆説的に言えば、死ぬまでは、「生きなきゃいけない」。

それと、「迷っていない」人など、いない。
「自分を嫌い」でない人など、逢ったこともない。
「普通の人」など、どこにも存在しないように。
現実的にちゃあんとやっていけているように見えている人が、知らないところで「苦しんだり」「迷ったり」している。

「なあんだ、みんな同じか」
そう、だからと言って、今の自分の「苦しみ」がラクになるわけではないけれど。
ただ、一つだけ。
「苦しんでいる自分に、苦しむ」のは、無駄だから止めようよ。

「人が、直接、神さまに向かう以外、どこにも安らぎはない」そんな言葉を思い出す。
乱暴な言い方だけど、きっとこの世界は「夢」だから。