今週のお言葉 – 71

自立するって、どういうこと!
イエス様がペテロに言われた。
「私と一緒に来なさい。魚を捕る方法を教えてあげよう」
昔、某テレビ東京の「24時間密着テレビ」という某番組から、取材依頼が来たことがあった。
僕が一酸化炭素の中毒死から生き返り、元気になって、それ以来、作家に転業したことをドキュメントという形で追いたいという趣旨だったと思う。
その時のディレクターのEさんに、僕はこんなお返事を出したように覚えている。
「今の世の中は、どんな中身を語るかではなく、それを誰が話しているのか?という事に注目しているように思います。それは、肩書き的なものに対する、人の依存のように思えるのです。テレビ゙に出てる人が言っているのだから本当だと。僕は、自分自身を含めて、人の“自立”ということを求めて書いてきたように思っています。表に美しい顔を出したり、代弁者のように目だつのではなく、一人一人の内側にある声を聴くつもりで書き続けたいのです」
その意志は、今もあまり変わっていない。
だから、本にもどこにも顔写真を出さないのだ。こんなにきれいなのに……ぶつぶつ。
……確かに、いつの頃からか、「自立」を意識して書き続けてきたように思う。
それは、大きな意味では、「戦争」に対するアンチテーゼ(反論)のつもりでもあったと思う。僕は、戦争こそ、自立とは遠い処にあるものだと思っているからだ。たとえば、かつてのニューヨークで起きたテロ事件では、アラブ系人種に対する警戒という集団ヒステリーが生まれた。人種的な偏見は、個人の自立する意識を遠ざけてしまう。今の日本も北朝鮮の一個人に対して、一歩間違うと冷静な判断を失いかねない。
知性も理性も教養もある人間が、ファシズムに陥っていく、私たちは歴史の中でそれを何度も目撃している。そこには、自立していない哀しい精神があったように思う。
卑近な例では、社会的な肩書きや地位に対する盲信や依存がある。西洋医学を盲信したり、宗教を信じて、健康や精神がかえって蝕まれていく人を幾度も見てきた。
自分の考えで判断し、自分の意志で決定する。それだけの能力を有している人間が、簡単に肩書きに、あるいは、演出された奇跡に騙されてしまう。
誰かに自分の運命や未来を委ねてしまうことの怖さ、それは、気が付かない内に私たちの心に侵入してしまう。たとえば、テレビに出ている人間やCMで宣伝している商品を簡単に信じてしまう、そんなことだって依存の一つである。
では、「自立」するとは何だろう?
どういう状態を自立していると言うのだろう?
一人暮らしをしている人は、自立しているのか?
夫婦や家族の関係で自立するとは、どういうことなのか?
さまざまな疑問が、エイトマンのように頭の中をよぎるにちがいない。
僕は、自立とは、「自由になる」ことだと考えている。
たとえば、親や伴侶から、経済的なことで縛られていると感じている人は、経済的な自立を果たした時に「自由」になれる。
誰かに、心や身体を縛られている、あるいは、「言いなり」になっていると思う人は、自分の意見をはっきりと言えた時から、自由が始まる。
世間的な常識や人の考え方や視線に左右され、自分らしさがわからなくなっている人は、「本当の自分」を取り戻したいと考え、行動し始めた時から自由を得る。
そうして、すべての「幻想」から自由になっていくとき、人は自分の足で大地に立てるのではないか。
「自立」には、段階というか、順番のようなものがあるようにも思う。
経済の自立、精神の自立、意識の自立、そして、魂の自立である。
経済や精神はわかりやすいと思う。
では、意識の自立とはどういうことか?
人の肩書きや地位に迷っていたり、自分で考えるのではなく人の考えに合わせることが精神の自立を損なっている状態だとしたら、意識の自立とは、すべての思想や哲学にも距離を取って、何者にも影響されないこと、それが見えない領域からの憑依などの現象に対しても、「自分を見失わない」ことのように思う(ファシズム等の洗脳も含めて)。
そして、「魂の自立」こそは、この銀河系の地球という惑星の人間の本質を求め、「自分」という存在を、生まれてきたことの意味を求め続ける中から生まれてくる、あるいは抽出されていくように思うのだ。
それは、遙かな旅かもしれない。けれど、求めがいのある旅のようにも感じるのだ。
『オンゴロ』の三人の子どもたちが、今まで人類が到達し得なかった、本当の愛を知ったように……。