風の言葉 – 15

人は、信じたいモノだけを信ず

「Body Lightening は、いわゆる一つの“奇跡”のように思います。まだ人類に知らされていない……」
京都のイルカ寺のご住職のI和尚の言った言葉が印象に残っている。
しかし、一般の人の多くは、まだ懐疑的だよ。
そりゃ、そうだろう、と思うさ。
きちんと学んで卒業できた方でも、「凄すぎて、とても信じてもらえない」とタメ息をつく人は多いからね。
従来の「常識」や「既成概念」では、とうてい理解しがたいらしい。

あるとき、BLの卒業生から、「人々が納得できるような、数値や科学的データを揃えてもらえませんか?」と問い合わせがあった。
「科学的なデータ?」
あれば、苦労はしない、と思う。
一般の人々や科学者には、「オーラ」の確認さえ難しいのだから。

同時に、「しかし……」と思う。
もし、血液の数値や他の科学的データを集めることが出来ても、人は信じるのだろうか? と。

 
人は、「自分が信じたい」モノだけを信じるのだと思う。
逆説的に言うと、どんなに裏付けや証拠があっても、人は自分が“信じたくない”と思っているモノは信じない。

たとえば、食料品の消費期限のゴマカシや品質管理をきちんとしなかった企業がある。それで、食中毒やヒドイ場合には死人さえ出る。当然、ニュースで報道され、企業的には大打撃を受ける、はずである。
けれど、それでも、離れない消費者は存在する。まるで、自分だけは、その被害に遭わないと思いこんでいるかのように。

私は、そんなとき、こう思ってしまう。
この人達は、「信じたくない」から、それがたとえ「事実」であったとしても、「自分とは関係がない」と考えているんだろうな、と。

かつて、たくさんの犠牲者を出したO宗教事件でも、首謀者の犯罪が明らかになっても、その宗教から離れない人は少なくなかった。
人々は、それを「洗脳のせい」だと言う。そうだろうか? と私は疑問に思う。
「彼らは、信じたいから、未だにそこに留まっているのではないか?」

常識的に考えたら、あり得ない。だが、人の「依存心」は、「信仰」という形に簡単に変じてしまう。
「自分が信じる」あるいは、「信じた」事をそう簡単に撤回できない。
それは、自己否定に繋がり、自分の「過去」がムダだったかと思うのが怖いのかも。
同時に、「自立」を余儀なくされてしまうからね。

それは、とても「根の深い」問題なのだと思うよ。
イエス様は、それを「しるしを求める時代」と嘆かれた。

結局、人は、「自分が信じたいモノ」だけを信じるのだ。
だから、「信じたくないモノ」は、誰がなんと言おうと、どんなに物的証拠があっても、その人にとっては「無力」なのだろう。

もし、今、キリストや仏陀が、再臨したとしても、今のキリスト教社会も仏教界も二人を「認めない」と思うよ。
だって、あの方達は一様に、「形のある組織や教会」を否定されたもの。また、「汝の敵を愛せよ」とも訴えられたよね。
でも、人々は、組織を作り、教会や寺院を建立してきた。そして、「正義」や「愛」の名の下に、多くの戦争を行ってきた。それは、きっと「自分たちの信じたい」ことだけを信じてきた結果なのだと思う。

もちろん、悪い例だけではないけれど。
何の物的証拠が無くても、「直感」でそれを「本物」だとキャッチできる人たちも存在するから。
でも、彼らには、それを客観的に説明できないかもしれないね。
 
だからこそ、思う。
「信じても」、「信じてもらわなくても」一緒なのだと。
それは、BLに限ったことではなくて、ね。

さて、あなたが「信じている」ものは、客観的に見ると、どうなんだろうね。


2007年12月15日 明日の東京での「お話会とBL体験会」に、ちょっとばかり緊張しながら。