風の言葉 – 17

Freedom……

……昔、何かの雑誌で読んだのだけど、カヌーイストの野田知佑さんが、しばらく連絡が取れなくなるので、エッセイを連載している出版社を連絡場所にしたという記事が載っていた。冬のカナダの大ユーコン川をカヌーで下っていくのだという。電話もFaxもない。川の両岸には、針葉樹林のタイガの大地が続く。町も何もない。連絡の取りようもないので、仕方なしに出版社を連絡の中継地点にしたのだろう。
僕は、その記事を見て、「本当の自由」という強い印象を受けたことを覚えている。
「しばらく連絡が取れなくなる……」
なんという「自由」だろうか。

例えば、あなたが、ふらっと家を出て、何ヶ月も帰らなかったら、音沙汰もなかったら、きっと家族や友人は心配するだろう。
長期の海外出張に出かけたって、会社やホテル、アパートなどで、いずれ連絡が取れる。
今では、携帯電話も海外で自由に使えるから、簡単には行方不明にはなれない。圏外で、しばらく通じなかったら、その間に、何本もの留守電が入っているにちがいない。

けれども、野田さんの言う「しばらく」は、自分から連絡しない限り、そちらからは取れませんよ、と「宣言」をしたということなのだ。それは、ある意味で、連絡の拒否でもある。「ほうっておいてください」とは、言わないだろうが、「探さないでください」ぐらいの意味はあるだろう。

僕も含めて、ほとんどの人は、人や社会と半ば強制的な「つながり」を持っている。「どこで、何をしているか」をいつも誰かが知っている。時には、その繋がりが、勇気やぬくもりを与えてくれるけれど、そのつながりを疎ましいと思うこともあるだろう。

どこかに遊びに行って、何日も帰らなかったら、必ず心配してくれる人がいる。それが、時に、ありがたく、時に、「自由がない」感じにさせる。「自由とはそんなものじゃない」と言う人もいるだろうけど。
自分がどこで、何をしようと、それを誰にも報告も連絡もしないで済む「自由」、それは、僕にとっては、まぎれもなく「自由のにおい」である。

「Let me Alone……」
だから、人は、「遠くへ行きたい」と、誰も自分の事を知らない土地へ旅立ちたくなるのだと思う。

しかし、そう言いながら、僕は望む自由とは反対の行動をとり続けている。
あれほど嫌った組織的なモノを結成し、また多くの人と深いつながりを持ってしまっている。それは、今後も増え続ける。

せめて、人や社会との「距離」を大事にしたいと願っている。一人で居る空間や時間を。


……けれど、最近、自分なりの別な「自由」も感じるようになった。
微食のお蔭で、「食べなくてもいい」、「栄養も要らない」、「あまり眠らなくてもいい」と。
そんな「自由」もあるのだ。
多くの人間が、縛られているその感覚からは、少しは自由になれたと思っている。

「自分を縛るもの」は、きっと、それぞれ人によって違う。
何に「自由」を感じるのかも、人さまざまだと思う。

今年は、いろんな事があった、よね。
来年の抱負として、一つ、何でもいいから自分を縛るものから「自由」にならないか。

 

2007年12月31日 大晦日に突入した、夜の静寂の中で。