風の言葉 – 33

幸せの条件


子どもの頃、駄菓子屋のお菓子を買い占めてやりたい! と願った事はないかな?
僕は、……ある。お金が足りなくて、悔しい思いをしたことが。
ひがみかもしれないが、駄菓子屋のお婆さんは、いかにもお金持ちのぼんぼんに見える子どもには、優しかったように思う。
それで、いつかお金持ちになったら、この店の駄菓子を買い占めてやる! と決意したモノだった。
 
その恐るべき野望は、未だ果たされてはいないけれど……。

思えば、子どもの頃は、「これがあれば幸せ!」というのが幾つも在った。しかも、それは案外簡単に手に入るモノだったように思う。
今の大人達のように、やれ、「3億円が当たれば幸せかな」とか、「瞬間移動ができたらハッピー」とか、「不老不死になれたら……」とか、「生のほしのあきに逢えたらサイコー!」(?)と、ムリ難題を言わなかったように思う。
まあ、今でも、「チョコパフェを食べてる時が一番幸せ!」と言ってくれる貴重な方はいらっしゃるのだが……。

かつてヨーロッパ人がアフリカに侵入した時、彼らは、「おまえ達は、原始的で野蛮なのだ」と洗脳していった。
それまで、ヨーロッパ人のような服を着ないでも十分に幸せだと感じていた人たちは、その言葉に不安になり、「そうか、自分たちは、野蛮で貧しかったのか……」とコンプレックスに陥っていったのである。「暗黒大陸」という呼び名のように。
それは、相手の文化や歴史を尊重しない、西洋文明独特の驕りそのものだったのだが、皮肉なことに、歴史は、アフリカを西洋人の欲しいままに搾取させてしまった。

人は、時に「知る」ことで、自分になかった「不満」を生んでしまうことがある。
知らなければ、そこで「足りていた」生活が、「不足」を感じるようになってしまう。
情報が「恐い」のは、そのためだ。

マスコミや広告は、必要以上に、「えっ! まだ持っていないの?」とか、「知らない人は遅れている!」とあおり立ててきたでしょ。
その為に、人々は、「頭でっかち」になってしまい、自分の「足りている部分」よりは、「足りない部分」にばかり目を向けるようになった。
女性誌等で「SEXの間違い」特集を何度も組んだ為に、自分はパートナーから「愛されていない」のでは? と不安になって別れてしまった人もいたという。
「あなたは本当のタマゴ焼きのおいしさをまだ知らない」くらいなら、罪はないのだが……、イヤ、あるかな。

それらは、「所有欲」の弊害であり、人との比較からなる「執着」でもあるのだが、「幸せへの囁き」はじつに巧妙で、人は自分の内側よりは外側に目を向けたがることも手伝って、「こうでなければ幸せではない」という条件を自らに課して、その結果、苦しみ続けるのであーる。

その最たる表現が「明日こそ、幸せになろう」じゃない。
今日「幸せ」でない者(正確には、幸せを感じられない者)が、明日、幸せになれるはずがないのだけど、今の自分では「足りない、ダメだ」と思い込むことで、結局は、外から加える力に手を伸ばし、自分の内側を見つめなくて済むゴマカシに使っている。

「幸せを感じる」瞬間なんて、本当は今でも幾つもあるのに、そこに形や証拠を求めるから、今まで感じていたものが感じられなくなるのだよ。
「そうかー、子どもの頃、小学校のグラウンドがとても大きく見えていたのに、大人になって訪ねてみたら、こんなに小さくて狭かったのか!」って驚いたことあるかな。
それも、子どもの頃の「尺度」を失った結果だよね。もし、子どもの目線や心のままなら、小学校の校庭は今でも大きく感じられるのだろうよ。

さて、「私は、いったい何に“幸せ”を感じるのだろう?」と探してみてほしい。

案外、気がつかなかった「自分の掴んでいるもの」が見えてきたりするかも……。


2008年8月13日 お盆です。昔は、亡くなった人の魂が、久しぶりに家に戻ってくる「黄泉がえり」だと信じていました。けれど、いつの間にか、「お盆=休暇」という感じになってしまいました。「ええじゃないか」と富士急ハイランドの桃太郎さんも言うてはりますがな。