風の言葉 – 39

ミザル、キカザル、イワザル

……見ようとしない、聞こうとしない、真実を語らない……人の「自立」を阻むもの

人の見ているものは、同じように思えて同じじゃなかったりする。
 例えば、美しい夕焼けを見て感動する。時には一人ではなく、誰かと一緒に見ることもある。
 「美しいね」
 「……ほんとうね……」
 と、韓流のドラマのようになるけれど、実際には二人の見ているものは微妙に違っていたりする。
 その美しさの源流をどこまで捉えているのかは、感性によって変わるから。

 燃えるような茜色の空に金色の縁取りを持った雲がたゆたい、幾筋もの赤い光跡が交差する、そんな夕焼け。
 一流のカメラマンが、ため息の出るほど美しい光景をカメラに収めることが出来るのは、きっと魂と引き替えに美しい一瞬を切り取っているのだろう。
 そのカメラマンの写真と「わあ、キレイ!」と気軽に撮る携帯電話の写真が同じであるはずがない。
 見えてるものが同じでも、見え方は人の意識で変わる。

 けれど、「見てみないふり」という言葉があるように、見ようとしなければ、目の前にあっても何も見えなくなってしまう。
 ホームレスが道端に倒れていても、人は何事もなかったように笑いながら通り過ぎたりする。
 
 人は、「見よう」とした時にだけ、本当のものが見えてくるのかもしれない。
 時には、見ようとしても、まだ自分に見えるだけの準備が整っていないために、見えないこともあるけれど……。
 ゴッホの芸術は、彼が生きている間は、ほとんどの人に“見えなかった”のだろう。

 それほど、「見る」という行為は、エネルギーを秘めたものなのだ。
 見ることは、意識を向けることである。

 自分はいつも何を見てきたのか? 何を見ようとしてきたのか? あるいは、何を見まいとしてきたのか?
 目の前にあっても見ようとしなかったのは何故だろう?
 何を怖がってきたのか?
 
 ある時、そんな疑問がふと頭をよぎる。
 人が自分を超えようとするとき、あるいは、本気で変わりたいと願うとき、自然にわき上がってくる感覚。
 だから、そういう感覚が訪れないで、「でも、私は変わりたいのです」と言っている間は、きっとまだ本気ではないのだ。
 誰も責めるべきものではないから、いいけれど……。

 
 「聞く」ことも同じ。
 「聞いてないよー」と笑いで誤魔化せるのは、ダチョウ倶楽部くらい。
 社会で「聞いてない」では、済まされないことは多い。
 けれど、本当に「聞くべき」事を聞いていない人は、もっと多い。

 それは、自分自身の「心の声」。
 必死にあなたに向かって叫んでいるのに、聞く耳を持たないから届かない。
 病気もそんな声のひとつだったりする。
 あなたに気づいてほしいことがあるから、と。


 そして、私たちは自らに問う。
 自分は、より真実を語ってきただろうか?
 真実を語るとは、ウソをつかないことではない。
 本音を吐露することだ。
 いつも周りに気を遣い、自分を偽っているうちに、いつまにか自分の本音がわからなくなってしまう。

 自らの口が話す「言葉」を自分の耳は、ちゃんと聞いているだろうか?
 
 本当は誰に相談しないでも、自分が一番よく知っているのだ。
 自分が、いかに見てこなかった、聞かなかった、言わなかった、かを。
 そうして、自分を嫌いになり、いつも責めてきた。

 今までも、そして、たぶん、これからも……。

 でも、もうそろそろいいんじゃない?
 同じ処をぐるぐると回るのも、いいかげん飽きたし、自分が弱くないことも気づいてるし……。
 そう、弱いふりをしてきただけ。今の自分を肯定できるから。正当化できるから。

 けれど……、と魂は言う。
 「もう、止めない? 自分自身から目を背けるのは……」 
 セットしたのを忘れた目覚まし時計のように、ある時、内側に鳴り響く。

 その時刻は、それぞれだけど、みんな一斉に鳴っているような気がする。


☆日光東照宮は、元和3年 [1617]徳川家康公を奉祀し創建された神社です。陽明門の近くの「神厩舎(神様の神馬をつないでおく厩舎。猿は馬を病気から守るとされ、室町時代までは猿を馬屋で飼う習慣があったとか)」という建物の壁面に有名な「見猿・言わ猿・聞か猿」の三猿像があります。


2008年12月9日 
今日は朝から冷たい雨。冬らしいお天気です。コーヒーは、ハワイのコナに変えました。
焙煎がマイルドで焦げていない豆です。近所にある「ぜにざわ」というコーヒー豆専門店のお蔭で、今まで、これがコーヒーだと思っていたものが、間違っていたことにようやく気づけました。ニガイのが美味しいと思い込んでいたのですね。もう、スターバックスやタリーズには行けません。
ホンモノを知ると、知らなかった世界には戻れなくなる。 
なんだか、人生と似ています。