お告げ – 15

大阪人の 大阪人による 大阪人のための 地球!?                                                        

 

気づいているだろうか……?。
 

町が、国が、そして、世界が少しずつ「大阪化」していることに。
 

聞くところによると、「大阪弁」を日本の標準語にしようという動きがあるという(ほんまでっせ)。
 ま

た、サミットなどの国際会議でも通訳は、「大阪弁を基準に」との提案がもたれている。
 

英会話のNOVAでは、いち早く時代の「うねり」を察知したのか、「フランス語を話す関西人」や「関西弁を話す宇宙人」をコマーシャルに起用し始めた。普通、「フランス語を話す四国人」とは、言わない。だが、「イタリア語を話す関西人」だとなんとなくしっくりとくるのはなぜだろう。
 

思えば、「吉本」の東京進出は、練りに練られた日本人一億総大阪人化の伏線だったのではないか……。
 

私には、そう思えてならない。 
 


 

今でこそ、吉本の名前は一般的になった。
 

だが、私が初めて帝都(東京)を訪れたとき、町の中で、チャーリー浜の「ごめんくさい。いきなりじゃあーりませんか」とか、「船、場太郎です」というのは誰にも通用しなかった。そのとき、初めて、自分が毎週かかさず見ていた『吉本新喜劇』が、地方ローカルの番組だったことに気づいて、改めて恥をかかされた帝都にリベンジ(復讐)を誓ったものだった。

 

あれから、20年、今ではすっかり東京人になりきった私は、関西人を微塵も感じさせることなく暮らしているのだ。
 

忍者の世界で言うと「草」の生活である。つまり、敵の領地に何十年も里人として暮らし、使命の声がかかるのをじっと待っている役目を負った者のことである。
しかし、もちろん、私に「浪速帝国からの使命」などはない。
 

大阪に貢献したこともなければ、ことさらに大阪人を刺激したこともない。
 

できれば、関わりにならずに暮らしていたかった。

 

けれども、惑星の直列化の影響か、時は、次第にこの日本を大阪的に変えつつある。
 

一つは、大阪弁の浸透率の高さに原因がある。
 

たとえば、東京の人間が10人、大阪の人間が1人のグループでどこかの山奥にキャンプに行ったとする。
 

すると、帰ってきたら、みんなすっかり大阪弁を話すようになっている。しかも、自分で気づかずに、である。
 

まして、テレビやコマーシャルで大阪弁の「洗礼」を日々受け続けている。
 

大阪で日常的な「もうかりまっか」「ぼちぼちでんなあ」の言葉こそ、東京ではまだ聞けないが、
 

「ほんまかいな、そーかいな」ぐらいは、誰でも言うようになった。
 

そうやって、「大阪弁」は、右脳の部分から侵入していくのだ。



 

しかし、なぜ、そう簡単に「大阪弁」の浸透を許してしまうのか?
 

それは、大阪弁の優秀性にある。
 

大阪人は相手に対しても、「われー」とか、「じぶんなあ」と言う。「じぶん」とは、「私」のことではない。「われー」も「我」ではない。
 

相手への呼びかけなのだ。
 

そこに、仏教思想に言う「自他一体」を観ることができる。
 

あたかも、地球は「共生」の時代に入った。大阪弁の「自分も他人も、じぶん」思想こそが時代性にまさに当てはまるのだ。



 

私がかつて書いたお芝居に『風牙の町』というのがある。
 

大阪大学の教授がタコヤキを焼いているうちに、間違えて核爆発を起こし、大阪中が放射能に汚染されてしまった話である。


しかし、大阪から逃げてきた大阪人を受け入れてくれる所は、どこにもなかった。とりわけ、東京人は、大阪人を帝都に一歩たりとも入れるものかと、OMD(大阪人抹殺同盟)を組織し、「大阪人狩り」を始める。
 

捕まえた大阪人を納豆巻きにして、佐渡ケ島へ送ったり、一万円札を踏ませて、「大阪人やめます」と、改宗をせまるのだった。
 

追いつめられた大阪人は、しかし、最期の手段「大阪弁波動砲」を放つ。
 

そんなに大阪人が嫌いなら、みんな大阪人にしてまえ! という恐るべきワザなのだ。

 

『風牙の町』は、三部作の予定だった。だが、大阪を離れ、大阪的磁場の影響から解放された私には、もはや三部作を完成させる「執念」はなかった。結局、2部作で終わっている。
 

だが、もし、私の意志を継ぐ誰かが、いや、何者かが存在して、忘れ去られた作業を続けていたなら……。
 

最近の大阪人の世界進出は、そのせいかもしれない。
 


 

耳をすますと、声が聞こえるような気がする。
 「立てよ! 大阪人!」


 

 

最期にケンさんから一言
 

「自分」も「他人」も、結局は「じぶん」でっせ。出会う人は皆、「自分」って言いますやろ!



 
 

★ちなみに、関西人といっても、京都人と神戸人は、自分たちは「一緒にしてほしないなあ」と思っている。なぜなら、大阪と京都と神戸は、  それぞれが互いに「自分の方が上」と思いこんでいるからだ。何を根拠に、と思うが……。