お告げ – 32

Going マイ 微食。 微食? 不食? さあ、ワシの未来はどっちだ!


ずっと前に、肉や魚のお刺身が食べられないために、自分はそれだけ人より「楽しみ」が少ないのだと思うと語った友人とこんな話をしたことがあった。
「肉が食べられないと言うことは、それだけ、生き物の命を奪わないで生きられるということだから、良いんじゃないの?」
すると、その友人は、首を横に振って、
「そういう計算にはならないと思う。結局、野菜や果物だけを食べていても、生きている命を奪っていることには代わりはないと思う」
と、答えた。その会話は、ワシの中に変に「こだわり」のように残っていた。
いわゆる環境保護活動家にベジタリアンが多いのも、畜産という人工的な飼育形態が自然を破壊していると考えるからなのだが、彼ら自身も肉は食べなくても人工の畑による不自然な栽培の野菜を食して、結果的には、自然保護に反している生き方に陥っていることをどこかでは気づいているのだ。そして、何か「食べる」ということは、人間が生きるために相手の命を頂いていることに代わりはないのだと。
ならば、「食べない」ことを人間が選べるなら……。
「……確かに、人間が何も食べないで生きられるなら、食べるということで命を奪うことはなくなるわな……」。

じつは、『不食』の著者、山田鷹夫さんの影響も無くはないが、ワシは、現在、一週間に5.5食である。一日に一食。間食も基本的にはしない。さらに、毎週、月曜日は断食をしている。水か、お茶だけで過ごす。断食をすると、翌日はかえって食べられないので、ウドン一杯とか、サンドイッチと紅茶だけとなる。だから、計算的には5.5食である。
食事の内容は、穀物と野菜食が中心である。食べられなくはないが、基本的に自分から肉食はしない。魚は一月に2-3回は食べる。刺身や貝はどこかに招かれた時に出される以外は、ほとんど食べない。日本酒を飲んでいると、ときおり、干物の焼いた魚が恋しくなる程度。

もともと、ワシの食生活は、一酸化炭素の事故による死からの帰還で、肉食が少なくなり、玄米菜食に移行していった背景があった。
ここ、数年は、朝はパンとスープだけ。昼食は摂らず、夜、軽い食事だけの日々が続いていた。
それで、180センチ、71キロの肉体を維持していたから、人からは、「よく、もちますねえ」と感心されてもいた。
自分でも、小食だなとは感じていた。ただ、それは玄米が多いからだと思っていた。玄米にすると、白米ほどには食べられないからだ。
だが、元から、小食だったわけではない。かつて広告代理店でコマーシャルを作っていた頃のワシは、鬼のように食べていた。朝・昼、晩と人の倍は食べ、夕食が終わった途端に、腹ごなしにラーメン(しかも大盛り)でも食べに行くかと人を誘って嫌われていた。あるとき、仙台のホテルのバイキングの朝食で、洋食と和食をフルコースのように食べ、ホテルのスタッフから「同じ服を着た双子か?」と、間違われたこともあった。その時、ワシが「ここの朝食バイキングって、値段安くないですよね」と一緒に居たディレクターに言ったら、「君のは高くない!」と言われてしまったほどである。また、あるときは、シンガポールのホテルで二つのテーブルに料理をいっぱい載せて、それをペロリゴンと平らげてしまったこともあった。
その時のワシは鬼畜のような存在だったのだ、と思う。「人非人」とののしられたこともあったっけ。

そのワシが、である。事故による「入れ替わり」(詳しくは、前世の記憶をご覧くだされ)のせいか、まったくの「別人28号」になって、何年も生きてきた。
あるとき、カゼを引いて寝込んでいた時、食べると治りにくくなり、食べないと治っていく、という「不思議な」経験をした。
かつてのワシだったら、高熱に冒されながらも、「喰わんと治らんのじゃ」と言って、鬼気迫る“迫力喰い”をしていたと思う。
後に、『千島学説』(千島喜久男博士によって、血液は骨髄ではなく、小腸の絨毛細胞で創られるという主張された学説。身体のためには、断食や微食が良いと訴えた)に出逢い、治癒のために働くエネルギーが、食べ物をお腹に入れると消化に向かうために、病気が治りにくくなっていたことも知って、自分の体験が「不思議」でもなんでもなく、「病気の時には食べないこと」が「正しい」ことなのだと理解できるようになった。
例えば、野生のイヌやネコは、病気やケガをすると、何も食べず、何日もじっと動かない。それを見た人間が、「可哀想に、ケガで食べ物を取れないのだ」と同情して、食べ物をあげると、治りが遅くなるのだ。だから、千島学説や消化と治癒の関係を知っている人は、動物をそっとしといてあげる。すると、どんどん治っていく。
多くの人が「病気になったら、体力つけな!」と肝っ玉母さんの張り手のような勢いで、背中をどーんと押され、無理矢理食べては消化不良を起こしたり、病気が長引いているのは、本当の「真実」を知らないせいだと思う。

思えば、西洋式の栄養学では、「足りない、足りない」と、一日に35種モノ栄養素を身体に摂り入れる事を薦めてきた。けれど、そんなもの簡単に摂れるはずもない。「今日もコロッケー、明日もコロッケー」と歌を実感してきた昭和世代の人たちは、いつも「栄養失調」だったことになる。だけど、昔の方がみんな健康だったのではないか。
少なくとも、子どもの「成人病」はなかったように思う。
 
ワシの話に戻るが、ワシは、千島学説や江戸時代の骨相学者、水野南北(人相と食の関係を突き進め、飲食を慎むと心も身体も健康になる。微食こそが、健康と開運の源と宣言した。何年もの観法修行から、“万に一つの誤り無し”と云われた。興味のある人は、『水野南北 開運の極意』大見屋発行Tell0895-22-4601を読まれるべし)の本を読んで、「ようし、ワシも微食にしようぞ。もともと一日に二食、それも、朝のスープと食パン一枚なら、一食でも平気なんじゃないか」と思い、実行に移したのだった。

一日に一食は、やはり何でもなかった。その一食も夜に摂ると、お腹が重いので、昼と夕方の間に摂るようにした。もちろん、量は、今までのごとく普通「定食」だけである。身長や体格から言っても、一日の食としては、普通の人よりも遙かに少ない「少食」である。
問題は、一週間に一度の断食だった。以前から「断食」には興味があった。ワシの敬愛する自然循環農法の赤峰勝人さんも毎年正月の「断食会」を主催しており、その効果や良いことも知っていたので、友人の月刊ムーの編集長でもある土屋さんに、「近くの成田山に行って、一緒に3日ほど断食やんない」と誘ったこともあった。しかし、土屋さんからは「それだけは死んでもいや! 成田山と言えば、ウナギのおいしい店と羊カン屋があるのに!」と強く反対されて、あきらめていた。
それで、「まあ、いきなり3日断食もきついから、一週間に一度だけしようっと。それなら、指導者がいなくても大丈夫だし」と、軽いノリで始めてみた。で、始めると、ちょっとキツい。やたらにお腹がぐうぐうと鳴るのである。「なんかおくれ!」と身体が訴えているのだ。仕方がないから、「茶腹も一服」とミネラルウォーターをごくごくと飲んだ。
けれど、それだけではワガママな胃腸は「満足」してはくれない。飴玉なら、舐めているだけだから、いいかなと思ったが、固形物はやめにした。お腹が減ると、よく「思考停止するとか」「仕事ができない」と言う人がいるけれど、本当に何もする気にならないので、その日は早めに寝た。

次の日、なんだか妙に、ぐっすりと眠れたような自分がいた。きっと、空腹のせいで、胃や腸が消化のために夜中中働くことも無くて、身体の他の部分と同じように「休めた」せいだと解った。何も食べていない時間は、前々日の夕方から計算すると、すでに一日の24時間を越え、44時間くらいになっている。当然、空腹は限界に達しているはずだった。なのに、不思議とお腹が空かない。あれ、お水を飲んだら、それで要らないかな、という感じなのだ。ああ、これが、ランニング・ハイならぬ、ハングリーハイかと思った。
このまま、今日も一日「断食」を続けても良かったのだが、いきなり無理をすることもないかと夕方に食事をした。
そのとき、頼んだのは、野菜の黒酢あんかけ定食だった(どこのかは教えない)。信楽焼のようなお茶碗にご飯が普通に盛ってあって、軽く炒めた野菜に黒酢のアンがかかったお皿と、みそ汁と漬け物が少々という、シンプルな定食だった。しかし、一つ計算外のことがあった。野菜と一緒に鳥の竜田揚げが幾つか入っていたのだ。その油と肉の匂いが鼻についた。イヤな臭いだった。化学薬品の含まれた餌で育ったお肉という臭い。きっと普段なら、気がつかないような臭い。甘酢の香りと、竜田揚げの香ばしさで解らなかった匂い。

三日以上の「断食」を実行すると、「感覚がとても鋭くなった」とか、細胞が若返って、白髪が黒くなったと言う話は、よく聞く。
だが、もともと、一度死んでから、何倍モノ知覚力を持ったワシである。マンションの上階に居て、ロビーの人の足音なんかを幻聴のように聞いたりするワシである。普通にしゃべっている人の吐息から、前日の食事のメニューがだいたいわかるワシ。履歴書など見なくても、人の名前と響きだけで、その人間が外人であろうが日本人であろうが、容姿やどんな性格と思考形態を有し、何が得意なのかを察知でき、後で確認したら、ほとんど間違いなかったと云われるワシである。時には、遠くに離れた人間が見た「光景」を同じように見ることのできるワシである(冗談でんがな、と思う?)。そのワシが、これ以上、鋭くなったら……。宝クジでも当てられるんじゃないか!と、期待してしまうではないか!
しかあし、その鋭い臭覚は、次の日になると消えていた。食べたら、「普通」に戻ったらしい。
余談だが、空腹の時に、胃や腸が本当に食べたいと思うモノが、身体には良いモノなのだと思う。その意味では、やはり、脂っこいモノとか、肉は身体には本当には必要がないのだと解る。さらに余談は続く。近年、人体に必要なビタミンB12は、動物性タンパク質にしか存在しないために、ベジタリアン(菜食主義)は間違いだと指摘されていた。だが、最近になって、菜食主義者の腸から、肉食常食者の何倍ものビタミンB12が発見され、それも、何人ものベジタリアンの腸に証明され、肉食をしなくても必要な栄養素が補給されることが判明した。科学者達は、腸内の微生物が、ビタミンB12を合成したのでは?と推測しているが、理論物理学者のルイ・ケルブラン(仏)の唱える「原子転換」が人体にも起こりうる証明のように思う。人間も光と水だけで、必要な栄養素を摂取できるのでは? と、期待させる出来事である。

かくして、ワシは現在のように、一週間に5.5食の生活に落ち着いている。いわゆる「微食」である。しかし、身体の変化はあった。70キロ以上あった体重は、最初の3週間で10キロも減った。180センチで、60キロだから、ものすごい。胸囲は90センチ以上あるのに、お腹周りが68センチほど。今まで履いていたズボンがユルユルになった。しかも、断食の日にもかまわず水泳や弓を引いたりするので、筋肉は衰えない。腹筋は、仮面ライダーのようになった。食べるモノが脂肪にまわらず、すべて筋肉に変化している、そんな感じだ。
身体が軽くなって、自分ではとても調子がいいのだが、実際にはどうなのか? じつは、ワシが足の治療のために診てもらっている国立の鍼灸医師K先生の脈診では、「腎臓の気も肝臓の気もとても高くて、健康。血液にも脳にも酸素が十分に入っている。余分な贅肉もなくて(あの、肉自体が無いんですが……)筋肉も柔らかくて弾力があり、どんどん良くなっている。まいったなあ、どこも悪い処がないんだもの」とのお墨付きを頂いている。ワシ自身の「良い」という感覚は主観だが、他人の診断は「客観」である。
思えば、イタリアのローマで30キロ近く歩き回っても、屋久島で毎日のように登山やダイビング、カヌーをしても、一つの疲れなかったのは、「微食」のせいのように思う。日本に戻ってからも疲れが溜まっていないのだから。余談だが、屋久島の屋久杉は、皆大きく長寿である。屋久島は花崗岩の島で、土壌が少なく、栄養も少ない。しかし、「微食」の観点なら、杉がゆっくりと成長し、大きく育つことは理解できるように思う。

今では、「食」に関して自分なりに思うことがある。
多くの人は、三食食べていても、そのほとんどは未吸収のまま排泄されるか、余分なコレステロールとなってしまっているのではないか。ワシの場合は一食だから、胃腸は必死になって吸収しようとする。これを逃したら、しばらく入ってこないからだ。しかも、ワシ自身が「惜しむ」ようにして、ゆっくり噛んで食べるから、尚のこと消化吸収率が上がる。ならば、もしかすると、人の三食とワシの一食は、栄養的には等しいのではないか?
そのことを事あるごとに、出逢う人に言う内に、何人かの人が「ならば自分も」と実行してくれるようになった。
その結果、その人達がどうなったのかを箇条書きにしてみよう。

1、長年の慢性の便秘だった人が、「一日に一食。断食はなし」にしてから、便秘が治った。これは、腸がカラッポになる時間を持ち、動き始めたからだと思う。
2、お腹の周りに古タイヤのチューブのように貼り付いていて、どうしても取れなかった脂肪が、「一日に一食」にしたら、瞬く間に取れて、うっすらときれいな腹筋の出るお腹になったとか。これは見せてもらっていないからわかりまへん。ただ、そうなると、いろんなダイエット方法や運動、ヨガなどよりも「微食」の効果は絶大となる。
太りすぎで悩んでいる人よ。夏に着る水着のために、ダイエットをしようかと考えている人よ。何も悩むことはおまへん。2ヶ月ほど、喰うの止めたら、痩せられまっせ。 って、死んでしまうか……。 

3、毎年苦しんでいた花粉症が治った。これは、もしかしたら、血液がきれいになったために免疫力が高まったせいでは?
4、不眠症の人が夜、ぐっすりと眠れるようになった。夜、胃腸が消化のために働いていると、眠りは浅くなる。お腹が軽いと、脳は深く休まるのだ。

 なんだか良いことばかり、である。では、私の感じる良いことは何か? 続いて箇条書きにしてみた。

6、一日に一食なので、今まで消費していた食事等や料理する時間が浮く。
7、毎日の食事をとても大切に取るようになる。一食がとてもおいしい。一期一会の心となる。
8、「食べない」ことを前提としているので、栄養的な要素を考えなくなる。食べたいものを食べる。けれど、実際には、肉食や脂食は自然に要求しなくなるようだ。
9、食費が、あまりかからなくなる。ワシの場合、コメ1キロ(玄米)で、一ケ月保つ。
10、パンなども毎日食べないので、本当においしいパンが買える(あー、貧乏くさい)。
11、疲れにくくなる。思考力や記憶力、知覚力もアップする。
12、病気やケガが治りやすくなる。
13、予知能力が出てきた。(ウソです。ゴメンナサイ)
14,空を飛べるようになった。(コレモウソデゴンス)
と、以上である。やはり、良いことしか思い浮かばない。ワシが自分でも実行し、人にも「微食」を薦める理由である。

ただし、なんでも「いきなり」は良くない。今、三食の人は、一年くらいかけて二食にし、それに慣れたら、半年くらいかけて一食にする、それくらいのレンジでいいのだと思う。もっとゆっくりやってもかまわない。
 
さて、ワシはこれからどうするのか? 山田鷹夫さんや先人のように「不食」に挑戦していくのか? ワシ的には、今年の終わりには一週間に4.5食くらいにまで節食したいとも思うが、今の処はまだわからない。もう少し、背中や胸の筋肉や足の筋肉を付けてもいいかな、とも思う。それに、内なる疑問も残る。
人が、その肉体に消化器官を意味もなく、持っているとは思えないからだ。また、「祈り」や「信仰」の伴わない「食べない」道が、どこに通じているのか、まだ見えては来ないからだ。そして、子どもや幼児の段階の「微食」はもちろん賛成だが、「食べない」ことまで行くと、正しいのかどうか疑問が残る。課題はきっと幾つもあるように思う。
だが、ワシなりに、進んでみようとも思う。どっとはらい!
 


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