お告げ – 41

1000のコラムを持つ男 Ⅱ
前回の「1000のコラムを持つ男」というフレーズが妙に気に入ってしまったワシ。
自己紹介の時に、「みなさん、こんにちわ。1000のコラムを持つ男です!」と言おうかしら、と考えているワシ。(いったいどこですんねん?)
果ては、名刺に「1000のコラムを持つ男」と入れたらどないでっしゃろ? と、大阪人の自我の誘惑にかられて悶々としてしまうワシであった。
幸いにも、無視される方もいたが、いろいろな方面から、「おめでとう、パチパチ」、「へえー知らんかったわいな」、「それ、たぶんすごいで!」と言う“お褒め”のお言葉を頂いた。
ワシ、とても、嬉しい。でも、ちょっと複雑。
なぜなら、普通はこういう事は、誰かから教えてもらって、「ふうん、そうなの……」と、熱いモカ・コーヒーなどを小指を立てて飲みながら、いかにも関心なさそうにつぶやいた方が、おしゃれで格好良いと思うのだ。
だが、いつも人よりも早く「真実に気づいてしまう」能力を持っているワシである。
人の知らないモノを見つける能力。それは、たぶん、バーゲン品のコーナーで一つだけ値札の打ち間違いで、他の商品よりもメチャクチャ安くなっているモノを目敏く見つけてしまう能力と似ている。人は、それを「おばさん体質」と呼ぶが。
人の知らない事を知る、というのは辛い。
それは、見えないものが見えてしまう、あの映画『シックスセンス』の男の子の気持ちに通じるかも知れない。
おりしも、このコラムを書いているワシの部屋の窓からは、中央林間の雑木林の緑が風に揺れているのが見える。
そこからは、夏の熱い岩に染みいらんばかりのセミの声が届いてくる。
……そう、遠い記憶がゆらぐ。
あれは、ワシが高校生だった時のことだった。坊さん頭の今とは違って、髪の毛を肩まで伸ばしていたときだった。
偶然知り合った看護学校の可愛い女の子二人と京都の南禅寺に遊びに行った。
ワシは、N君という友人と一緒。男女2人ずつの美しいグループでえとだった。
“若さだよ、ヤマちゃん!”(今時、誰も知らんぞ)が、すべてを輝かせてみせる時期。我々は、互いにいろいろな事を語り合った。
「ねえ、食べ物だったら、何が好き?」
「えっ、ミカンの汁で炊いたスキヤキ?」
「今度一緒に映画でも観ようか」
「あたし、“悪魔の遊園地”っていう映画が見たいわ」
いかにも高校生らしい他愛のない会話をはずませて、我々は南禅寺の境内を散策していた。
その時、ワシは、なぜか落ちている木の実を拾うと、「えい、やっ!」と、前方に見える高い木の枝に投げつけたのである。たぶん、小さなドングリか何かだったと思う。
木の実は、午後の太陽の光がレンブラントの絵のように森に射し込んでいる中を、放物線を描いて飛んでいった。
そして……、木の枝で休んでいたミンミンゼミの背中に当たった。
と、突然の落下物に驚いたセミが、「ミミミミミミミン!」と狂ったように飛び立ったのである。
ワシは思わず興奮して、「見た、見た! セミの背中に当たったんや!」と叫んでいた。
他の三人はポカーンとしていた。おそらく、何が起こったのかわからなかったのに違いない。
その時だった。ワシはどうしてセミの背中に木の実が当たるのが“見えた”のだろう? と、疑問に思ったのは。
それは、誰からも「偶然」として片づけられてしまった小さな出来事だったけれど、ワシにとっては長い孤独な道を自覚した最初だったように思う。
次の日から、「セミの背中を打つ男」という名刺を作って学校で配りまくったのは言うまでもない。
要は、「1000のコラムを持つ男」と、誰も言ってくれないから、自分で言うしかなかったのだ。という“哀しみ”を伝えたかったのである。
だから、ワシは、人に褒められたりする事に、とても弱い。
「いつ読んでも、魂に響く文章ですね」と、編集者がお世辞のように言っても、本気で、この人の子孫の健康まで祈っていこうという気持ちになってしまう。
きっと、人は、誰かに褒められたくて、頑張っているのだと思う。
それは、「認めてもらいたい」という想いでもある。
愛する人に、自分が愛されたいと願う人に、そして、何よりも神さまに!
ああ、人って、悲しいなあ……。