お告げ – 44

距離研究家
白衣の男が聞いた。
「ハイ、これは?」
すると、お玉のようなものを片方の目に当てている男が答えた。
「あの、……その……右のような……」
「では、これは?」
「……あの、たぶん、左ではないかな、と」
「……そうですか。では、これはどうでしょう?」
「……よくわかりませんが、今度は下、じゃないでしょうか?」
「なるほど。あなた、目が良くないようですな」
カメラ、ずーっと引くと、白衣の男と視力の検査を受けている男とは、30メートルほどの距離があった。
……昔、大阪の読売テレビの『なげやり倶楽部』というテレビ番組のために書いたコント。シティボーイズの大竹まことさんと竹中直人さんに演っていただいたように思う。
人生には、「良い距離」が必要だなと痛感することが度々ある。
男と女の恋愛関係はもちろん、夫婦や子ども、家族、仕事、遊び、社会、そして、自分自身とも。
どんなに仲が良くて、親しい間柄でも、距離を忘れると不思議と感情がすれ違う。
昔から、「親しき仲にも礼儀あり」とは、そういう意味だったのではないかと思う。
人との関係は、難しい。
なぜだかわからないが、ぼくは自分でも気づかない内に無意識に相手に「気を使い」、挙げ句に「気づかれ」してしまう癖を持っている。
それで、「距離」をとても大切にしてきた。
でも、ふと見回してみると、「一人でいる方が気がラク」という人は驚くほど多い。
とても仲の良さそうに見える夫婦が寝室を別にしていたり、食事をわざと一緒に取らなかったり。
聞いてみると、なるほどと思う事が多々ある。
寝るときは、確かに自分一人の方が疲れない。別に相手がイビキや歯ぎしりをするからではない。ふと相手が布団や毛布から足を出していて風邪を引かないかと心配することもなく、寝返りも自由にうてる(寝返りは健康にとても重要である。昼間の筋肉の動きの偏重のバランスを取るからだ)からだ。
食事も、自分が食べたいタイミングと相手が食べたいタイミングが合わない時は、本当に「美味しい」という感覚も違ってくるのだと。
また、ある人は、自分一人の時間が家庭では取れないからと、コンビニやファミリーレストランに出かけていって、そこで何時間もいたりするのだと言う。
結婚に疲れて離婚したという女性から、「今度もし結婚するなら、何とか経済的に自立して、マンションの隣とか上下で住みたいの」と聞いたこともある。
もちろん、距離を取ることよりも、いつも一緒にいることに「幸せ」を感じる人もいる。
相手に距離を感じると、それを「不安」として捉える人もいる。
同じ服や色違いのグッズを買ってきて、相手に着せたり、持たせたいと願う人もいる。
建築設計士だった知人の父親は、お客のダブルベッドの注文に、ツインの方が良いですよと勧めて、お客に嫌がられたという。病気になったときなど、一緒に寝ていると移ってたいへんですからと説明したらしいが。
「距離」というものは何が正しいか、ではないように思う。きっと、その人の「魂の自立」の度合いなのだと。
互いに自立している人は、相手との物理的な距離、精神的な距離を問題にしない。むしろ、自分自身との距離の大切さを思う。
たとえば、自分が自分らしくいられるか、どうか、と。
自分の空間、自分の時間が無くなると、相手に対して「余裕」のようなものが持てなくなるのかもしれない。
陰と陽の視点で見れば、孤独であることが、自分の魂を強くし、人と共にいることが、その心を強くするように思う。
ただ、それを感じられるのも適度な「良い距離」があるからだと思うのだが。
みなさんは、どうでしゃろ?
最後に幸福屋から一言。
この前、車を車検に出したら、「新車買われて7年目ですよね。傷もなくきれいに乗られてるし、39000キロしか走られてないのですね」と感心したように言われた。じつは、以前にも「東北のかしまし娘さん」達から言われたこともある。「おばはんんドライバー」と。うううっ、口惜しいが、言い返したいが、事実なのだ。ワシは、近所のヨーカドーの往復か、弓の練習に近くの道場に行くときくらいにしか使っていないからだ。
そこで、今度はちょっと遠くまで車で行ってみることにした。えっ? 遠くって? 鎌倉のFM。「いい距離作ろう、鎌倉幕府」なんちゃって……。