今週の言葉 – 06

肝心なのは、どれだけのことをしたかではなく、
あなたの行いにどれだけ愛を込めたかなのです 

マザー・テレサ

最近、ようやくこの言葉の重みがわかるようになった。
えらそうに言っているのではない。
この言葉に打ちのめされる想いになる。
自分も含め、多くの人は、「良いこと」はぜひやるべきだと考えている。
マザー・テレサほどではなくても、自分にできる範囲でできる小さな「良いこと」は、できればいいなと思う。
けれども、その行為を為したとき、人は自分の行為に「溺れる」。
特に人から喜んでもらえるような「親切」を為したとき、自分で自分を誉めたくなる。
そこまではいい。きっと許されるだろう。
しかし、あるときから、自分がどれだけの行為を為したかを自負するようになる。
たとえば、海の砂浜をきれいにしようと、ゴミや空き缶を拾い始める。
最初は、純粋に自分からは海を汚さないにしようという強い決意。
それが、毎日、あるいは毎週続けていくうちに、「今日はこれだけ拾えた。明日はもっと拾おう」と意欲がますかもしれない。
もし、それが続けば、しまいには「拾ったゴミの数」に心を捕らわれるようになる。
あるいは、自分がしていることをどこかで「誇り」たくなるかもしれない。
  
人は、進化する生命体である。
昨日の自分よりは、明日は素晴らしくなろうという「進化」は素晴らしい。
だが、時に人は「数字」のマジックに捕らわれる。
「奉仕の行為」を数値に置き換えたとき、その行為は「純粋な奉仕」から外れる。
たとえば、私が多くの信頼できる人たちと呼びかけ始めた「愛の光500運動」(詳しくは、「太陽の風」のページを開いて見て下さい)は、現在500人近い参加者がある。毎月500円を災害で傷ついたり、地雷に苦しんだり、もの言えぬ動物を虐待から救うために「善意のお金」を寄付していただく運動である。
人に呼びかけるとき、500円がいかに大きな「助け」を生んでいくかを訴える。
けれども、時折、人から「どのくらいの人が参加していますか?」と、聞かれると「もう500人近いです」と言う自分と、「まだ、500人くらいです」と言う、二人の自分が内部に存在する。
始めた時、参加者は友人たちや呼びかけ人の、身内の数人だった。それが、一年あまりで300人に増えた。当初の事を考えれば、ものすごい、ありがたい数字である。
でも、自分の中には、「あそこにもここにも」と思う自分がいる。被災地は年々増える。地雷は無くならない。動物たちの「痛み」もなんとかしたい。捨てられるペットを見ると「怒り」も「悲しみ」も感じる。寄付するお金も多くしていきたい、そう思う自分がどこかにいる。
そうすると、つい、「ああ、10000人の参加者があればなあ」と考えてしまう自分がいる。
けれどもそれは、初心の「純粋な奉仕」を忘れた姿である。
最初の一人が参加してくれたとき、「まだ一人」ではなく、「もう一人」だったはずである。見知らぬ人が自分と同じ「良いこと」をしたいと、趣旨に賛同してくれた。それは、金額には変えられない「すごいこと」であったはずである。
それが、500人近い参加を得て、「もっと」となる。それでは、「奉仕の心」が失われる。
いつまでも、「ありがたい!」という「感動」を大切にしていきたい。

私たちが「世界」を、21世紀を、豊かに変えたければ、自分の中から、「自分はそのことに愛をこめただろうか?」と問う姿勢を持ちたい。